メルマガ連載記事 「知れば得する???脳科学―自閉症―」
第5回


自閉症の遺伝子治療は可能か?
― 自閉症の多様性 ―

国立特別支援教育総合研究所客員研究員 渥美 義賢  

遺伝子治療

 遺伝子やタンパク質の構造や機能を研究する分子生物学が著しい進歩を遂げ、遺伝子の移植等の遺伝子工学が発展したことを踏まえ、遺伝子を操作することによって、遺伝子の異常による重篤な疾患の治療ができるのはないかという期待が高まり、研究が開始されました。
 厚生省のガイドラインによれば、遺伝子治療とは「疾病の治療を目的として遺伝子または遺伝子を導入した細胞を人の体内に投与すること」とされています。遺伝子治療が研究段階にあることから、その対象となる疾患は「致死性の遺伝性疾患、癌、エイズなどの生命をおびやかす疾患で、他の治療法と比較して遺伝子治療臨床研究を実施することによる有効性・有用性が十分予測される疾患」(厚労省のガイドライン)とされています。
 遺伝子治療の対象とされるのは、主に原因が単一の遺伝子の異常によることが明確な疾患です。癌については、単一の遺伝子が原因であることは少なく,大部分は複数の遺伝子が複雑に関わる多因子性の疾患ですが、遺伝子治療と対象として研究が進められています。この場合には、癌の治療に役立つ免疫機構に関する物質を、その物質の遺伝子を操作して活性を増加させる遺伝子治療が試みられています。この場合でも操作する遺伝子は単一です。
 難病の治療に大きな期待が寄せられている遺伝子治療ですが、その方法における様々な困難があり、また移植した細胞の癌化等の副作用もあるため、現在までのところ必ずしも十分な治療効果をあげるには至っていません。特に自閉症のように、多数の遺伝子が関与していると考えられる場合、その遺伝子の操作には大きな困難が伴うと想定されます。
 

遺伝病と遺伝性疾患

 遺伝病は古くから使われ、現在も使われている用語です。世間で一般的に使われる場合には厳密な定義はありませんが、「誰にも明らかに分かるような遺伝する病気」という意味で使われています。この意味では、自閉症は遺伝病ではありません。
 遺伝性疾患という用語も様々に使われることがありますが、学術的には「遺伝的な要素を含み遺伝子の働きが関与する疾患」として広い意味で使われ、分類として以下の5つがよく用いられます(分類の名称には「遺伝病」が使われますが、この場合の「遺伝病」は俗にいう「遺伝病」とは異なり、広義の「遺伝病」で、親子の遺伝とは関係のない遺伝子の異常も含まれています)。
 

  1. 単一遺伝子病(メンデル遺伝病)
     単一遺伝子の突然変異による疾患で、メンデルの法則に従うことが多い。フェニールケトン尿症等の先天性代謝異常症、血友病、筋ジストロフィー等。
  2. 多因子遺伝病
      複数の遺伝子が関与し、環境要因も関与することが多い疾患。口唇口蓋裂、二分脊椎、先天性心疾患等。自閉症等の精神障害の一部、高血圧症、糖尿病等も多因子と考えられている。
  3. 染色体異常
     染色体の数または構造の異常による疾患。ダウン症等。
  4. ミトコンドリア遺伝病
     ミトコンドリアDNAの異常により、細胞質遺伝によって子孫に伝わる疾患。ミトコンドリア脳筋症等。
  5. 体細胞遺伝病
     臓器の体細胞に生じた新しい遺伝子や突然変異による疾患で、代表的なものは癌。

 遺伝性疾患に関係する重要なことは「浸透率」の概念です。浸透率とは、遺伝子の異常があった場合に、臨床的な疾患として表れる割合のことです。ある遺伝子に異常があったとしても、その他の遺伝子との関係や環境との関係で臨床的な疾患としては現れないことがあります。従来、遺伝病といわれてきた疾患は概ね100%の浸透率を示すものです(ただし、多因子遺伝病では症状がヒトによってスペクトラムを呈することが多く、浸透率がばらつきやすい)。
 自閉症は、その他の発達障害と同様に主に多因子遺伝病によると考えられており、浸透率は未確定ですが、やや高めと推測されています。
 

 自閉症に関連する遺伝子

  自閉症(広汎性発達障害、自閉症スペクトラム障害でも同様)は、行動や認知に現れた症状から診断される多様な臨床単位です。多因子遺伝病によるものが大部分と考えられていますが、現在同定されうる遺伝子関連の障害もあります。
 すなわち、単一遺伝病とされる結節性硬化症、脆弱X染色体症候群、レット症候群等も、自閉症様の症状を呈し、それが診断基準を満たす場合には自閉症(又は広汎性発達障害等)と診断されます。また、15番染色体の一部欠損(q11-13)等の染色体異常や、最近ではコピー数多型(CNVs ; copy number variations)の関与が報告されています。
 こ自閉症のある人たちの10~20%に、上記のような現時点で同定できる遺伝子要因の関与があると考えられています。今後さらに同定できる遺伝子要因が増えていくと考えられていますが、80%程度は多数の遺伝子が関与しているものと推測されます。
 単一遺伝子病として同定されているものを含め、自閉症の発症に関係する可能性のある遺伝子は100以上が報告されています。
  

レット症候群の遺伝子治療

 現在、遺伝子治療の研究が活発に行われていますが、多因子性である癌に対する遺伝子治療として免疫機能に関する遺伝子の発現を強める研究が行われていることを除けば、ほとんどが単一遺伝子の異常による疾患の治療を目的としています。
 レット症候群は、その95%がMECP2(一般的に遺伝子は斜字表示)という単一遺伝子の異常によって起き、約25%程度が自閉症を呈することが知られています。そこで、レット症候群に対し、生後の遺伝子治療が可能かどうかを試みた研究がなされています。
 レット症候群は、生後半年程度は正常に発育し、その後から発症するので、MECP2の働きが必須の時期は生後半年以後の可能性があります。そうすると、生後の一定の時期に正常なMECP2又はMeCP2(MECP2によって合成されるタンパク質)を補えばレット症候群の発症を防ぐ可能性があります。そこでGuyらは、マウスのMECP2の働きを止めるLox-StopカセットをMECP2に着けて人工的にレット症候群のマウスを作りました(引用文献1)。これらのマウスのうち17匹は、ヒトの生後半年程度に相当する生後3~4週に、タモキシフェンという薬剤を注射してLox-Stopカセットを外し、MECP2を働かせるようにしました。この注射の過程で副作用により9匹は死亡しましたが、残りの8匹はその後に記憶障害や運動障害を全く呈しませんでした。Lox-Stopカセットを外さなかったマウスは全て記憶障害や運動障害を示しましたから、マウスでは生後3~4週からMECP2もしくはMeCP2を補うことでレット症候群の発症を防ぐことができることを証明しました。ヒトでいえば、生後半年くらいから正常なMECP2遺伝子かMeCP2を補えばレット症候群を予防できる可能性があるといえるでしょう。しかし、実験におけるマウスの死亡率の高さ等、ヒトへの臨床応用にはかなりの時間がかかりそうです。
 

環境の影響も重要

 単一遺伝子の異常によって起きる疾患は、当該遺伝子を働かなくした(ノックアウトした)実験動物を作ることができるので、様々な研究が進められています。その中に、環境の重要性を示す研究があります。
 脆弱X染色体症候群は、FMR1という遺伝子の異常によって起きるので、この遺伝子を働かなくしたマウスが作られています。Restivoらは、FMR1を働かなくして脆弱X染色体症候群を起こしたマウスを、通常の飼育環境と、それよりも広く多様な遊具(回転車、トンネル等)を用意した「豊かな環境」の両方の環境で育てた結果を報告しています(引用文献2)。
 脆弱X染色体症候群のマウスは、不活発で探索行動(これが弱いことがマウスにおける自閉症様症状と考えられている)が弱いという行動上の変化がみられ、分子生物学上は知能や学習と関連があるとされるグルタミン酸の受容体の構成要素タンパク質を合成するGluR1の発現が低下し、スパインという信号伝達に関係する神経繊維上の組織の形態と機能の障害がみられました。
 このマウスを「豊かな環境」で育てたところ、行動上の不活発性や探索行動の弱さが改善し、GluR1の発現が増加し、スパインの形態と機能の障害に改善がみられた、と報告しています。
 この結果は、遺伝子の異常によって表れる症状が、ある面では育てられる環境によって改善する可能性を示しています。特定の遺伝子に異常があっても、他の遺伝子の働きとの相互作用で表れる形は変化し、環境によって当該遺伝子や関連する他の遺伝子の働きに影響を与え、表れる症状の程度等を変化させます。養育や教育は、どのようなメカニズムで影響するのかの詳細は分かりませんが、障害自体に影響を与える可能性が大きいことが示唆されています。

<文献から>
引用文献1)
J acky Guy,1 Jian Gan,2 Jim Selfridge,1 Stuart Cobb,2 Adrian Bird1 (2007): Reversal of Neurological Defects in a Mouse Model of Rett Syndrome, 315(23), 1143-1147.

引用文献2)
Leonardo Restivo, Francesca Ferrari, Enrica Passino, Carmelo Sgobio, Jorg Bock, Ben A. Oostra, Claudia Bagni, and Martine Ammassari-Teule (2005) : Enriched environment promotes behavioral


 

 <目次のページに戻る