3 研 究 方 法
上記2にあるような、考え方に立ち、いわゆる肢体不自由を伴う重度・重複障害児といわれる子どもたちと関わる中で、筆者たちが常に配慮しなければならない重要なこととしてきたのは、指導者の会話(しゃべるロ調や表情や内容等)を子どもたちの在りように合わせるということである。すなわち、本来的には同年齢の子どもたちと何ら変わるところがない、という前提に立って真摯な態度で子どもたちと接するということであった。そして、このことを指導者がしっかりと押さえながら、かつ身体のどこかに子どもの返事としての動作が現れるという観察の視点をもつことで、子どもたちは指導者が提示したさまざまな話題に対して、さまざまな様式で回答(返事)してくれるようになり、必然的に指導者も子どもの返事の様子が見て取れるようになってきた。
その過程において筆者は以下のような経験則を得た。
(1) 例えば、筆者の「・・・・ね」とか「・・・・・したの?」という筆者のしゃべりの切れ目のすぐ後に必ず子どもの身体のどこかに何らかの動きの兆候(いわゆる返事)があること。
(2) 上記(1)のような会話を繰り返す中で、「字が書ける?」という筆者の問いかけに対して、子どもの「はい」の意味の回答が上記(1)のそれと同じであること。
(3) 上記「(1)、(2)」の過程を経た場合、ほとんどの子どもの場合、実際に自分の名前や名字やその日の天気等、簡単な名詞の書字が可能であること。
これらのことから、指導者の子どもたちと接する態度を上記のように十分に配慮し、身体のどこかに返事の動作が現れるという観察の視点を持った場合、指導者が発することばとその返事のタイムラグ、すなわち「・・・・ね」と指導者がことばを切った後に子どもが示す身体の動きの発現までの時間差が子どもの書字・描画につながる内的な高い能力の評価を行う上での重要な要素ではないかと推測した。
そこで、以下のような手順に基づいて研究を実施することにした。
(1) 健常(児)者の筆者との会話における「問い」「回答」間のタイムラグを測定する
(2) 既に、STAにおいて書字・描画の可能な重度の肢体不自由を伴った重度・重複障害児といわれている子どもに対して上記(1)のような設定でタイムラグを測定する。
(3) 事例研究を通して、タイムラグの意義(正当性)を多角的に検討する。
1.実施方法
上記(1)、(2)、(3)の具体的な実施方法は以下のように行った。
−録画−
1)健常(児)者に関しては、状況の意味を知らせることなく、筆者との自然な会話の場面をデジタルビデオカメラ(SONY Digital Handycam)に録画した。この時、筆者は、問いかけ等しゃべりのフレーズを切るごとに、それに同調させて被験(児)者に気づかれないよう人差し指を挙げるようにした(結果的に彼験(児)者は誰も筆者の動作に気づかなかった〉。
2)重度の肢体不自由を有する重度・重複障害児といわれている子どもに関しては、2事例について健常(児)者と同様に会話の場面をデジタルビデオカメラに録画した(人差し指挙げも同様である)。
3)さらに、上記2事例の子どもに対しては、さまざまな関わりの際にも全身的な動きに関する反応(返事)をデジタルビデオカメラで録画した。また、それ以外の事例に関しても、デジタルビデオカメラによる録画を行った。
−分析−
1)2名の録画画面観察者による画面上での明確な応答場面選択を行い、その場面についてコンピュータ(SONY VAIO PCV R70)のモーションアナライズ機能(DVgate motion)により分析を行った。
2)タイムラグは、筆者の人差し指が上がる瞬間から相手が例えば額いたり何らかの応答動作を行った瞬間までの時間を測定した。モーションアナライズ機能では、秒単位以下は、コマ数(30)/秒で表示される。 したがって、ローデータ(測定値のコマ数)を秒に換算した。また、その他の関わりの場面においても、2名の録画画面観察者によって筆者と子どもの応答動作の起点を設定し、その間のタイムラグを測定した。
2.分析結果
1)健常(児)者
健常者(大人)16名、健常児(15〜10才)8名に対して録画、分析を行った。その結果、タイムラグが最長であったのが、健常児」健常者ともに8/30コマ(0.027秒)で、タイムラグの最短は、健常児の3/30コマ(0.01秒)であった。
健常者、健常児の平均タイムラグは以下のようになった。
健常児のタイムラグの平均値・・・・・0.020秒
健常者のタイムラグの平均値・・・・・0.016秒
健常児+健常者のタイムラグの平均値、0.018秒
2)書字や描画が可能な、肢体不自由を有する重度・重複障害児
事例1:小学5年生(男)、脳性まひ。通常の姿勢は椅子座位、歩行はできない。
定頚が不十分であり、かつ両腕のまひが強いため、手の操作はほとんど
できない。
ことばに対する反応はするどく、発声がある、表情も豊か。
身体障害者手帳1種1級、療育手帳A1を持つ。
事例1におけるタイムラグの平均値・・・0.023秒
(7試行行い、最短0.013秒〜最長0.03秒の範囲であった)
事例2:小学4年生(男)、脳性まひ。肢体不自由の状況は、ほぼ事例1と同様
である。但し、立位は不完全ながら短時間、補助で保持できる。
ことばに対する反応は鋭く、発声がある。喃語様の「あー」という発声
がある。質問に対するうなづきはできる。表情は豊か。
身体障害者手帳1種1級を特つ。
事例2におけるタイムラグの平均値・・・0.029秒
(5試行行い、最短0.017秒〜最長0.037秒の範囲であった)
4 上記事例の分析結果および種々の事例から得られた示唆
− 上記事例の分析結果について −
1)ことばでの会話により、会話の流れに沿った意味のある全身的に表出される動きを観察した結果、健常児・者ではそれらの動きは我々が想像していたよりもはるかに速く表出されていることが分かった。また、健常者(大人)よりも健常児(子ども)の方が全般的に表出が遅れる傾向があった。
重度の肢体不自由を伴う事例においても、健常児・者よりも表出は遅れるものの、その差は2/100秒程度、また、健常児との差に関しては平均値で1/100秒以内とわずかなものであった。しかしながら、これらの差に関する心理的な意義に関しては今回の研究では明確にできなかった。
2)健常児・者および重度の肢体不自由を伴う事例の全てにおいて、2/100秒弱程度の測定群および個人内での誤差があった。これらの誤差は会話の内容(例えば質問の内容や様式)や文脈が大きく関与しているものと考えられる。
3)上記重度の肢体不自由を伴う事例の子どもたちは、文字や描画に関する直接的な学習は行っていないが、テレビの番組や兄弟の勉強を見ていたりする等、日常生活においてどこかで必ず文字や描画に触れる機会を持っていた。
−種々の事例から得られた示唆について−
1)重度の肢体不自由を伴う重複障害児に対して、このやりとり(会話における発信とそれに対する何らかの身体の動きによる応答)がより明確に行われる条件として、双方に何らかの話題性の枠(共通した意味の枠組)が成立していなくてはならないことが示唆された。すなわち、ただ闇雲に指導者が発信しても返事(応答)は返ってこない。
(具体例)
(1) コミュニケーション(会話)の内容が例えば家族に関することや自分が好きなものの話題など、身近なものや興味関心がある話題の時に明確になる。すなわち、会話の内容が子どもの日常生活の中で実感を通して体験した出来事や事柄に関して展開した場合、明確な応答が認識できる。
(2) 双方のやりとりに関して、ある一定の流れ(スムースなりズム感)が形成されている時に、明確な応答が認識できる。すなわち、指導者が子どもの応答に対して上記分析結果によるタイムラグを意識し、すかさず応答することを繰り返した際にそのリズム感は発現する。
(3) 上記(2)の指導者の応答では、単にことばだけではなくそのことばに感情を込めるべく他の会話メディア(表情やしぐさ等)を加えることにより、その効果は増大する。
(4) 上記(1)、(2)、(3)の状況にある子ども全てが、STAにより少なくとも自分の名前、名字を「ひらがな」ないしは漢字で表現することが可能であった。
2)健常児・者、重度の肢体不自由を伴う重複障害児ともに、応答がやや遅れて発現する時がある。このような場合、(1)指導者の発信の内容が、概念的であったり「YES」「NO」の回答を要求する質問ではなく「HOW」の質問であったときや(2)子どもの側が、ことばによる応答や規範に合致した応答(例えば、「はい」ならば首を縦に振る)をしようとして内的な努力を行うとき、が考えられる。さらに、(2)の場合には、子どもが比較的高い内的能力を持っていることが多い。
3)重度の肢体不自由を伴う重複障害児全ての事例について、STAにより文字表現が可能であると周囲の人々に認識された瞬間から、表情が明るくなり、かつ表現行動が劇的に変化した。
4)重度の肢体不自由を伴う重複障害児の場合、自分の名前やその日の天気等をSTAにより文字表現できることと、自分の意思の文章表現ができることとは、ほとんど一致しなかった。会話の理解度がほとんど健常児と変わらず、しかも小学校高学年程度のテスト問題(記述問題ではない)の解答がSTAにより可能な子どもであっても、文章表現では2語文程度であった。
V お わ り に
1.指導者の基本的態度について
特に重度の肢体不自由があるためにことばを持たない子どもの内省を、私たちは彼らの発声や表情やしぐさ等、いわゆる彼らの動作から推測するしか理解の方法を持たない。このときに最も重要なのは豊かな人間関係に基づいたいわゆるコミュニケーションであることは言うまでもない。しかし、私たちがそれらに基づいて推測を行う際に、依ってたつものがいわゆる私たち障害児教育に関与する者の誤った常識や規範に準拠したものであるとするならば、彼らの人間像は私たちによってその本質から大きく隔たったものとして形成されてしまうかも知れない。
卑近な例を示すならば、以下のようなことである。
(1) 始まりの会等で、指導者の呼名に対して「はい」とことばで応答できないときに、この意味が理解でき ない判断してしまう・・・実は全身的な動作で応答している場合が考えられる。
(2) 子どもに〜したいことを質問する際に、「〜ですか?それとも〜ですか?」と質問し、表情やしぐさでの応答がないときに「〜」や「〜」というものが分かっていないと判断してしまう・・・実はそのような質問には答えたくない、という場合が考えられる。
(3) あるものを見せて子どもが迫視しないとき、「これには興味がない、この意味が分かっていない」と判断してしまう・・・実は他のものに興味があり、それではないとの返答の表現である、という場合が考えられる。
このように、上記(1)、(2)、(3)の前半の状況と後半の状況を示す子ども像は、全く違ったものとなってしまうのである。
それでは、上記の「私たちの誤った常識や規範」とは具体的にはどういうものであろうか。端的に言えば、それは私たち障害児教育に関わるものが、図らずも陥ってしまう「障害がある子どもは通常とは異なる」という障害児観が根源となっている場合が多い。このような障害児観に基づいた指導者の態度は、いきおい当事者の健常者からのマイナス変位を探り出し(しかも実験室的に)その差異を指導によって健常者に近づけようとする方向性を持ちやすく、ややもすると人間の関係性(コミュニケーション)という側面の重要性を捨象してしまうのである。
すなわちその結果、(1)指導者自身の在り方が最善かつ不変なものとして位置づけてしまう、(2)そのため、実験的な態度で子どもと接してしまう、(8)子どもの変化がみられない場合、他のものや子どものせいにしてしまう・・・実は指導者自身のせいなのだが、(4)指導者と子ども固有の(生の)状況を種々の指導理論そのものに当てはめて作り上げてしまう(トップダウン的発想)、以上等のような態度で子どもと接してしまうことになる。特に、重度の肢体不自由があるためにことばを持たない子どもに接する場合、このような指導者の在り方はその子どもに対して、さらに重度の知的障害を併せ持つとの判断を下す危険性をはらんでくることは明白であろう。
2.子どもへの実際的関わりについて
本研究では、いわゆる肢体不自由を伴ったいわゆる重度・重複障害児と言われている子どもたちの実に多くが、実は知的には重度ではなく、滝坂の言う、(1)そのようにしたくないのだが、身体が勝手にそのように動いてしまう、(2)そのようにしたいのだが、身体が動いてくれない、というような子どもであった。
このような子どもの場合、ことばでのコミュニケーションは当然潜在的には成立可能であり、こどもは何らかの動作性のサインを表出していると考えてよい。指導者はこのような前提に立って、ことばがけを行い、そのセンテンスの切れ目切れ目に瞬時と思われる(上記測定結果に基づくタイムラグ)子どもの全身性の動作を見て取り、それに即して次へのことばでの会話を継続していくのである。この時、指導者にはその返答に即して、会話の文脈を次々と自分自身で作り上げていく、ある程度の一人語りを円滑に成立させていく能力が必要となってくる。そして、この文脈に沿って子どもへの同意を得ながらSTAの実際的な活動へと移行していくのである。すなわち、STAの本質は、このようなことばでのコミュニケーションの連続線上にあり、決して次元を異にする関わりではないことを認識すべきである。
3.さいごに
本研究から私たち自身が得たことは、STAがマニュアルに基づく単なる指導法ではなく上記のような私たち自身の本質からの反省を促すものであり、かつ現状では唯一具体的に子どもの内省を探ることが可能な手続きであろうという確信である。今後さらに、深くかつ多角的に、研究を継続していきたい。
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