メルマガ連載記事 「サバン —自閉症の不思議で大きな可能性—」
第6回


サバンと自閉症(5) ―美術的才能―

国立特別支援教育総合研究所客員研究員 渥美 義賢  

  1.自閉症のあるサバンにみられる美術的才能

 自閉症のあるサバンにおいて、美術的に特異な才能がみられることは特に多いとはいえないようで、Rimlandの調査(1978)ではサバンの19%、Salovitaらの調査(2000)ではサバンの13%です。ただ、美術的才能については数学的な課題解決のように客観的な評価をすることがむずかしいという問題があります。近年、Art Brut(生の芸術:英語ではoutsider art)が注目されています。Art Brutについては後で紹介しますが、その多くの作品は20世紀前半までなら、芸術的価値を与えられなかったと思われるものです。Rimlandの調査の頃にはArt Brut的な美術的な才能の見方はされていませんでした。現在では、より広く自閉症のある人の才能が見出せると思われます。本章では、現在のArt Brutの考え方も含めて自閉症サバンにおける美術的な才能について考えていきます。 

  2.猫の画家―ゴットフリート・ミント(Gottfried Mind)

図1 Gottfried Mindの猫の絵 ゴットフリート・ミント(1768~1814)はナポレオンと概ね同じ時代に生きた自閉症のスイス人です(彼の生きた時代には自閉症の概念はありませんでしたが、孤立を好み、社会性がなかったことなどから自閉症であったと推定されています)。描いた絵の多くが猫を中心とする動物の絵で、特に猫の絵には素晴らしいものが多いので、「猫の大天使(Raphael of Cat)」とも呼ばれています。指物師であった彼の父親は絵を描くことを無意味と考えており、彼が絵を描くための紙を希望すると木でたたいたりしていました。それでも、彼には絵の師匠がいました。幼児期にレーゲル(Legel)という画家と出会う機会があり、それ以来彼はレーゲルの後を付いて回り絵を描くところをじっと見つめ、そのうち鉛筆で模写を始め、それをレーゲルが添削するようになりました。8歳の時に貧しい子どもが通う学校に入れられましたが、そこでも絵に夢中であったようです。その学校を出た後に、当時有名な画家であったジグムント・ヘンデンベルガー(Sigmund Hendenberger)に師事しましたが、彼の才能が大きく花開いたのはヘンデンベルガーが死んだ後でした。毎日ほとんどの時間を家の中で猫を見、猫を描いて過ごしたようです。彼の絵は当時から注目されていました。
 ゴットフリート・ミントの時代は、貴族のロココ文化が花咲く近世から近代への橋渡しをする時代で、美術は写実的な技法がほぼ完成し、優雅なロココ様式から古典的な写実性を重んじた新古典主義にかかる時代にあたります。彼の絵は、絵の師匠がいたこともあり、同時代の表現技法を自家薬籠中のものとし、好きだった動物、特に猫の家族を暖かな視線で描いています。このことも、彼が同時代の人々に広く受け入れられた理由の一つであると思われます。

  3.都市と建築物の画家―スティーブン・ウィルシャー(Stephen Wiltshire)

図2 勲章の授賞式におけるスティーブン・ウィルシャー スティーブン・ウィルシャー(1974~)は、ロンドンで生まれた英国の著明なサバンの画家で、2006年には芸術に対する貢献により大英帝国勲章第5位 (MBE)を受けました(図2)。
 彼は言葉がなく、誰とも交わることがなく、3歳の時に自閉症と診断され、同年に父親を交通事故で亡くしています。5歳の時にロンドンの自閉症児を主な対象とする特別支援学校クイーンスマイル・スクール(Queensmill School)に通うようになり、そこで絵を描くことに強い興味を示しました。それに対応して、教師らは描画活動を力づけ、彼の描画能力は一層高まりました。このころは、動物やバス、そして建物を描きましたが、詳細で正確な描写が特徴で、8歳までに遠近法をマスターしていたことが注目されています。彼は9歳未満の時にはほとんど話しができませんでしたが、この学校で会話等の社会技能を教わり、彼は他者と会話が始まりました。8歳の時に、地震の後の都市の風景や自動車を想像して描き、10歳の時にはロンドンのランドマークである著明な建物や広場などの景色をシリーズとして、アルファベット順に描きました(図3)。彼の風景画は人気が高まり、多くの美術館で展覧会が開かれ、画集も多く出版されています。
図3 ビッグ・ベン ウィルシャーは見たものをそのままに記憶することのできる映像記憶者(カメラ・アイの持ち主とも言われる)で、短時間でも一度見たものを後から正確に描くことができます。ただ単に写真のように見たままを写すだけではなく、魅力的に美しく表現することができます。
 彼は10代の後半に専門家から描画の訓練を受けたことがあります。それについてサバン研究者のHermelinは「彼は訓練を受けた頃に一過性に独特の確とした様式を失った」としています。幸い指導者が彼の好みや特性を活かす方向へ指導したようで、モノクロの線画を用いた独特の表現様式がさらに洗練されました。
 彼はヘリコプターに乗って都市を上空から20分間程度間見て、それを正確で詳細な表現と美しさを持った鳥瞰図にしています。ロンドンやローマ、シンガポール等の多くの都市の鳥瞰図を描いていますが、2005年には、東京の上空をヘリコプターで飛び、それを1週間かけて10mのキャンバスに描いており、これは彼の最大の絵になっています。
 

 ウィルシャーの絵や絵を描いているところの動画は下記のサイトから見ることができます。

 4.日本のサバン―山下清

 山下清(1922~1971)は、絵画とちぎり紙を用いた貼り絵で素晴らしい作品を作り、現在でも高い評価を受けています。山下は3歳の時に重篤な消化器疾患に罹って命が危険な状態に陥り、その後に知的障害が出現したといわれています。そのためもあり、明らかに自閉症とはされていません。しかし、家族の話しとして、「誰とも合わずマイペースで」「弟子入りを希望する人を全て断り」「人並みはずれた記憶力があり」「超がつく程の几帳面さ」等々があり、少なくとも自閉症的な傾向のあったことが示唆されています。サバンと自閉症の特徴に関連があるとすれば、関連のありそうな自閉症的な特性があり、それが特異な能力に関連がある可能性を考えることはできるでしょう。
 山下は10歳の時に父親を亡くし、12歳の時に知的障害者施設「八幡学園」に入り、そこでちぎり紙細工と出会いました。やがてこれに夢中になり、八幡学園の顧問医で精神病理学者の式場隆三郎に注目されて指導を受け、山下の美術的な才能が開花しました。16歳の時には銀座の画廊で個展が開催されました。彼は、18歳の時に突然放浪の旅に出かけ、これ以降もしばしば放浪の旅に出かけるようになりました。この放浪の旅で出会い感動した情景を絵にしましたが、旅先で絵を描くことはなく、感動した情景は映像記憶として八幡学園や実家に持ち帰り、そこで製作しました。39歳の時には式場隆三郎とヨーロッパ旅行に行き、そこで見た景色を帰国後に美しい絵にしています。山下のサバンと考えられる絵画の才能は、本人が潜在的に持っていた才能はもとより、周囲の人たちがその才能を見出して支援し続けたことで、大きく開花できたものと考えられます。

山下清の絵のサイト

 5.早熟で一過性の才能発現―ナディア(Nadia)(Salfe, L. 2011)

 ナディア(1967~)は、ウクライナ出身の科学者を両親として英国のノッチンガムで生まれました。乳幼児期から運動発達と言葉の遅れが気づかれていましたが、2歳の時に重篤なはしかに罹り、それ以降、さらに孤立し声も出さず何にも反応しなくなりました。家でほとんどの時間、宙を見つめてボーッとし、何もしないで過ごす(絵を描くようになってからは、絵を描く以外は)ことが彼女の典型的な生活になります。彼女は3歳の時に絵を描き始め、その絵には素晴らしい写実性がみられ、定型発達児の発達過程でみられる「なぐり書き」の過程を経ていません。彼女はほとんどの動作が遅く不器用でしたが、絵を描く段になると非常に器用に手を使い、母親がびっくりして報告しています。
 ナディアの描く絵は、動物や人物を主な対象としていましたが、特に馬をたくさん上手に描いています。彼女が外出することは少なく、実物の馬を見る機会はほとんどなかったので、絵や写真の本から着想したものと考えられています。3~4歳の定型発達の子どもが馬を描く場合、首を左にした馬を真横から見た構図で描き、馬に動きはなく、平面的であることがほとんどです。一方、ナディアは様々な向きから、特に斜め前方から見た構図でよく描き、馬は走ったり跳ねたりしておりダイナミックに表現しています。
 ナディアは、4歳の時に重度の知的障害と診断されて特別支援学校のデイケアに通うようになり、その後に小学校に通うようになりますが、学校でもほとんど独りで引きこもった生活をしていました。6歳の時に専門医療機関を受診し、そこで絵の才能に注目されて絵を描く時間をたっぷりと与えられるようになります。しかし、心理検査等には非協力的で知能等の詳細な評価は不可能でした。その限界の中で明らかにされたことは、語彙が極端に少なく約10語しかないこと、視空間的な認知が相対的には優れていたことでした。
 ナディアは8歳の時に自閉症と診断され、自閉症専門の特別支援学校に通うようになりました。そこでは言葉や生活技能について積極的な指導が行われ、彼女の言葉によるコミュニケションや生活技能に進歩がみられました。彼女が9歳の時に母親が癌でなくなりました。
 この頃から、ナディアの絵に変化が見られ始めます。当初は元からの写実的な絵に同年齢の定型発達児にみられるような、いわゆる‘子どもっぽい絵’が混じるようになり、徐々に子どもっぽい絵や単なる線を描いたりすることが多くなりました。
 ナディアが12歳の時に再度諸検査を受けましたが、この時は社会性が増して検査に比較的協力的で、語彙も200~300語に増えていました。一方で、描画はより子どもっぽくなっていき、20歳の時には幼児が描くような絵へと退行し、絵を描く時間も少なくなっていました。
 このような、ナディアにみられた描画能力の退行は、サバンの人に時々みられるものですが、その原因はよくわかっていません。ナディアについては、1) 時期的に母親が亡くなった後であることからその影響、2) ナディア固有の発達過程として、一過性に特異な能力が表れ消褪した、3) 社会性やコミュニケーション能力が訓練で改善したことと引き換えに独特な描画能力を失った、の3つの理由が考えられています。本記事の第3回目に記載したGeorgeとCharlesのように、他のサバンにおいても3)の訓練によると考えられる特異な才能の消褪がしばしばみられることから、ナディアも社会性とコミュニケーション能力と引き換えに描画能力を失った可能性が考えられます。ナディアの場合には、対人的相互作用やコミュニケーション等の社会性の指導が彼女の描画能力の退行に関連があった可能性が推測されていますが、ゴスティーブン・ウィルシャー、山下清においては、そのような因果関係は考えられていません。ウィルシャーや社会性が改善しつつ描画能力も発達しています。
 ナディアの作品については以下のサイトから主な作品を網羅したpdfファイルが得られます。加齢に伴ってナディアの絵が変わっていく様子が分かります。
http://media.routledgeweb.com/pp/common/sample-chapters/9781848720381.pdf#search='Nadia+savant'

 6.生の芸術―Art Brutー

 Art Brut(アールブリュット)は、1940年代後半にフランス人の画家ジャン・デュビュフェが創造した新しい言葉です。デュビュフェは鑑賞者の目を意識することなく作者の内面から湧き出るものが自由闊達に創造された美術の大切さを唱え、彼の言葉を借りるなら「芸術的訓練や芸術家としての知識に汚されていない・・・創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」を重視し、それらをArt Blutと呼びました。当初は、何の正式な美術的教育を受けていない子どもや素人の成人の作品を指していましたが、そこに含まれる障害児・者の作品に対して主に用いられるようになりました。こうして障害児・者の作品が様々な機会に紹介されるようになり、狭義のArt Blut(Art;芸術、Blut;生の・純粋な)は障害児・者の美術作品について用いられるようになっています。後に、アウトサイダー・アート(outsider art)として英訳されていますが、自閉症等の障害のある人たちの美術を指し示す言葉としてはArt Blutが相応しいと思われます。また、特に障害児・者の作品についてoutsider artを用いると、outsiderが誤解されてしまう可能性もあり、世界的にもArt blutがよく用いられます。
 19世紀に入ることから、欧米で従来の様式に囚われない様々な美術様式が提唱され表現されるようになりました。そこには19世紀半ばに大きな影響をあたえた浮世絵等の日本趣味(Japonism)等の欧米以外の美術様式が欧米で知られるようになったことも関係があります。当初は大きな抵抗がありましたが、20世紀になるとさらに様々な新しい表現様式が生まれ、それが社会に受け入れられるようになってきます。近年Art Blutが注目され広く受け入れられるようになってきたのは、この流れの一環と考えられます。
 我が国においても、障害児・者の美術の価値を見出し、評価し,広く社会に紹介する動きが広がっています。日本のArt Blutを欧州に紹介したArt Blut Japonais展が2010年にパリのアル・サン・ピエール美術館を嚆矢に欧州を巡回し、2011年に日本に帰って展示が行われました。それらの作品は以下のサイトで見ることができます。

 7.サバンの作品とArt Blut
 

図4 小野寺 健 作「おにいちゃんの絵」 ゴットフリート・ミントから始まるサバンによる美術品の報告は、ほとんどが欧米において製作されたものです。それらをみると、そこには欧州の美術様式に強く影響されていることが分かります。写実的な作品が多く、基本的には15世紀頃に確率された遠近法に忠実です(学習していなくても)。ゴットフリートは専門家の指導をかなり受け、スティーブンもある時期に専門家の指導を受けています。山下清もある程度専門家の助言を受けていたようです。ナディアは特別支援学校での芸術療法以外には専門的な指導を受けていないのですが、お手本とした手元にあった写真や絵の本があり、そこには絵にはダ・ビンチ等の欧州の巨匠の絵があったようで、その影響が見て取れます。
 このように、美術的な才能を示すサバンの作品は、少なくとも社会に広まった作品の作者は何らかの美術的な指導を受けていることが少なくありません。そのことは、サバンが描画の基本に、その時代の美術様式の影響を受けていることに表れています。欧州のサバンの作品に葛飾北斎のような構図や色彩を使った作品は、著者の調べた範囲では、存在しません。
 美術だけでなく、音楽でもそうですが、サバンの才能には天性のものがあると同時に、才能として発揮される芸術に接する機会と実行する機会があることが重要です。音楽では名曲を聴く機会がありピアノ等(サバンのほとんどがピアノ演奏家)の楽器に触れる機会がある人がサバンとなっており、美術でも、絵を見る機会があり、絵を描く機会があり、さらに一部では指導や助言を受ける機会のあることが、少なくとも社会で広く知られたサバンには必須のようです。
 従って、これらのサバンの作品は、そのサバンの生きた時代の定型発達者の評価基準に合致した作品となっています。そして、定型発達者の作品として見ても優れたものとして評価されたものです。しかし、Art Blutはその範囲を越えようとしています。自閉症等の障害のある人たちが生み出す作品にある、そのままの生のすばらしさを、作品に積極的に感じていこうとする姿勢です。
 図4は、小野寺 健さんという自閉症の人の鉛筆画です。作品集の本が出版されていますが、まだ東山魁夷と比べられる程には評価されていません。しかし、ある自閉症の男の子が小野寺さんの作品を見た時の反応は、東山魁夷の絵を見た時の感動を凌ぐのではないかという、非常に大きな感動が見て取れまました。その子は小野寺さんの作品も見るなり「スゲー」と言ったきりしばし身じろぎもせず、ただ熱く美しい目で作品を見つめていました。少なくとも著者は、東山魁夷の作品でもダ・ビンチの作品でも、それほどの感動をもって美術品を見た経験がありませんでした。それで、もう一度よーく小野寺さんの作品を見てみましたが、まだ、それほどの感動を経験するには至っていません。
 美術を鑑賞し評価する目も、もっと障害児・者の持っている生の感性に学ぶことが多いように思われます。Art Blutの流れはそれに近づく一歩のように思われます。
  

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