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本文 重度・重複障害児の「書字・描画」能力を評価・促進する方法の開発に関する研究

独立行政法人国立特殊教育総合研究所

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1 研 究 目 的


  肢体不自由と知的障害を伴う、いわゆる重度・重複障害児と言われる子どもたちは、身体の動きや表情、しぐさ等による意思の表出が乏しかったり通常の様式と異なっていたりするために、学校教育の場において彼らが有している実際の能力が理解されにくく、その結果、彼らの能力にそぐわない指導や関わりが行われるといった状況が多々見られる。また、そのような子どもの保護者からは、彼らが物事の意味や言葉を理解しているように思えるが、明確な確認の方法がなく困っているとの声も多い。
  国立特殊教育総合研究所において、自ら言語表現や文字表現ができない子ども(特に自閉症児や重度肢体不自由児)に指導者が手を添えながら彼らの主体的な動きを援助しながら運筆することにより、書字や描画による表現が可能になるという現象が見いだされ(この方法を我々はSTA・・・ソフト・タッチ・アシスタンスと名付けた)、事例研究を行ってきた。その結果、このような現象が生起する背景には、(1)−触ったらできるといった機械的な技法の側面ではなく、子どもと指導者の身体を通した相互交渉、相互信頼、特に指導者側の「障害観」「人間観」のあり方が深く関与していること、(2)−子ども自身が本来的(潜在的)に書字・描画の能力や意欲を有しているということが前提であるということ、(3)−このような現象を実証するには、本質的には従来の自然科学的手法による観点からでは困難なものがあること、等の知見が得られた。すなわち、従来いわれてきた書字や描画に至る学習過程を経ずして自分の名前を書いたり人の顔などを描画できる子どもが存在するということである。
  本研究では、上記のような特に肢体不自由を有する重度・重複障害児に対して、従前より確実な内的能力の発見、評価とその促進を促す指導の方法(STA)を、より一般的な形として表せるよう試みるものである。


2 STAの本質とその背景にあるもの


は じ め に
  私たちは、自分の意図や気持ちを身体を使ってあらわしている。ことば、身振り、しぐさ、表情そして眼差し、これらのすべてが身体の動きそのものである。さて、そのような身体に不自由さがあるということは、意図や気持ちを表現するという事からみたとき、どのような状況に置かれていると考えることができるであろうか。

1.表現の実現を援助する
(1)「表現」をどのようにとらえるか
  「生きている」ということはその人の表現そのものである。そしてそれは身体、身体の動きそのものということができる。しかし、私たちが「表現」を考える場合、このとらえ方はあまりにも大まかすぎる。そこで、次のように考えてみることにする。
 生れて間もない赤ちゃんが泣いたり声を出したり手足を動かしたりする光景、あるいは私たち自身が小学生の頃に泣いたり声を出したり手足を動かしたりしている姿を思い浮かべると、両者の間には、同じように身体を動かしていながら、大きく異なっている点があることに気づくであろう。それは、生後間もない赤ちゃんの場合、快や不快がそのまま身体の動きとなって現れているのに対し、小学生時代の私たち場合、相手や環境、自分自身の思いとの関係の中で自分の意図や気持ちを、身体の動きとして具体化しているという点である。また、赤ちゃんの場合その身体の動きが何を意味しているかについてはよくわからない、見る側がある思い込みを持って「そうであるに違いない」と捉えるしかないのであるが、小学生となった私たちの身体の動きは、見るものにとってその動きが何を意味しているかが、ずっと分かりやすくなっているはずである。それは、私たちはこの社会に育つ中で、身体の動きについてこの社会に共通な様式を身につけていくことに依っているからである。私たちは、その様式を用いて自分の意図や気持ちを身体の動きとして表していくのであるが、この様式が「人と人とが分かり合う」基盤になっている。
  しかし、この「身体の動きの様式化」(本稿でいう「表現」)、あるいは「様式化された身体の動きの実現」を妨げるものがある。それが、障害とよばれるものである。
(2)表現を広げる二方向
  身体の動きに不自由がある場合、その人の表現(意図の具体化)をより広げていくための方策として、これまで二つのアプローチが取られてきた。一つは身体の使い方を繰り返し練習することによって、少しでも自由に身体を動かすことのできる範囲を広げていくという方向、いま一つは、本人が動かすことのできる範囲にあわせて本人のやりたいことができるように環境側を工夫していくという方向である。前者はいわゆるく訓練>のベースにある考え方で、後者は近年とくに開発が自覚しいコンピュータを使った機器支援やバリアフリーのベースにある考え方である。もちろんこの二つは対立するものではない。

2.「触れる」ということによる援助
  今から約10年前、私の勤務する国立特殊教育総合研究所の同僚の1人が、重度の知的障害があり身体も不自由だったお子さんの手に触れ、描画を援助したところ、それまで形のあるものを絵に描いたり文字を書いたりしたことのなかったお子さんが、それとわかる形の描画をした。このできごとをきっかけに、私たちはこの事実をどのような事と理解したらよいのか、この方法を従来書けない描けないといわれてきた人々への支援方法として一般化できないかと考え、実践を通じて検討してきた。さらに、私たちはこの方法を、書く(描く)という場面での援助だけでなく、スプーンやフォークで食べる、ナイフで切る、ボタンやフックをはめるといった日常生活動作全般に適用するということを行ってきた。そして、「『身体の一部に軽く触れる』ことによって、独力では実現目的的な動作の達成を支援する」という意味でこの援助をソフト・タッチング・アシスタンス(Soft Touching Assistance;略して「STA」)と名づけた。また、検討を進めるなかで、おなじような試みが国内外でもほぼ同時期に行われ、事例が報告されつつあったこともわかってきた。
  代表的なものの一つにファシリテイテッド・コミュニケーション(Facilitated Communication;略して「FC」)とよばれるものがある。この援助の方法は1980年代にオーストラリアの言藷治療士ローズマリー・クロスリイ(Rosemary Crossley)が塵性まひの手や腕を支える事によって子どもたちの不随意な動きを調整してやることを通じ、書字やタイピングを可能にしたものである。その後この方法は話し言葉や身振り、書字などのコミュニケーション手段をもたない他の障害のある人々、特に自閉症の人々に適用されるようになり、合衆国における自閉症の人々への実践は一大センセーションを巻き起こし、世界的に知られるようになった。

3.触れる事による援助の実際
  触れる事による援助STAとはどのようにして行うのか、援助を受ける側の状態を次の3つに分けて具体的に述べてみることにする。

(1)そのようにしたくないのだが、身体が勝手にそのように動いてしまう。
(2)そのようにしたいのだが、身体が動いてくれない。
(3)自分はどうしたいのかはっきりしない。

  脳性まひなどによって、何か目的のある動作をしようと思った時に、反射など不随意な動きが出てしまい、身体の動きが思うようにならない場合が(1)の典型的な例である。また、レット症候群の子どもたちもこのような状態にあると考えて支援する事ができる。
  筋ジストロフィーの子どもたちやいわゆる低緊張の子どもたち、また自閉症の子どもたちのもつ困難を(2)と考える事ができる。(3)は重度の知的障害といわれてきた子どもたちの状態といって良いように思われる。

(1)「そのようにしたくないのだが、身体が勝手にそのように動いてしまう」場合
  このような場合でも、動きの中に目的にそった動きの成分が必ず含まれています。比喩的に言えば、この動きの中から目的にそった動きの成分以外を排除してやるための工夫がこういった子どもたちへのSTA上の課題になる。したがって、援助にあたっては、彼(女)の目的的な動きの特徴と、その際に現れる「不随意な動き」の特徴を知っている必要がある。書く(描く)ことへの援助を例に取れば、
 (1) 肱と手を保持し、不随意な動きが出現する(強まる)前に筆記具の先を紙面に着ける。
 (2) 保持した時点とペン先が紙面に着く時点では比較的しっかり保持し、中間では彼(女)から出てくる主体的な動きを援助者が感じ取れるように自由度を工夫する。
 (3) 実際に書く(描く)過程では、起点と柊点そして、急激な方向の転換時(例えば、「角」や「はね」など)に不随意な緊張が出現しやすいので肱や手をしっかりと保持してやるとよい場合が多いように思える。
 (4) 不随意な緊張は全身的なものであるので、筆記具を持っていない側の腕と手を保持していてやる、足の裏を床に着く状態で行う、姿勢や座り方を工夫するなどがあわせて重要である。

(2)「そのようにしたいのだが、身体が動いてくれない」場合
  このような子どもたちの場合、一見全く身体が動いていないように見えるが、実際にはそうではないことが非常に多い。実はとても微細な動きが頚部や指先、足先に現れていたりしている。しかし、それが書く、描くというからだの動きとは程遠く感じられるために、周囲の私たちが関連させて捉えられなかったのである。
 (1) 彼(女)が机に向かい、フェルトベンをもち、書こう(描こう)とする状態で肱の部分で彼(女)の腕を取り、手を援助者の掌で包むように持って待つ。この時に、肩や肱、腕に微細な力が入りフェルトベンの先を紙面に近づけようとする動きを感じることがある。
 (2) 紙面にペン先が到達するに至らない場合には、力が入った方向と反対方向に抵抗をかけることで応じ、自分が起こした動きを本人に確認してもらうようにする。
 (3) フェルトベンが紙面に着いた後、そのまま待つと動きが目発してくる場合とそうでない場合がある。自発してきた場合には、その力や方向性を確認しながらこちらの介助を低減していく。このことは、彼(女)の主体的な動きを重視し、最低限の援助ラインを探すことでもある。動きが自発してこない場合には、肱をもった手を多方向に少し動かす、彼(女)の手を持ったこちらの手を多方向に少し動かすことを通じて書字・描画の際に動員される関節部分(肩、手首)や力の入れ方に意識をむけてもらうことができる。この場合の「少し動かす」というのは、こちらが彼(女)の肩や手首に抵抗を感じる程度という意味です。彼(女)が書きたい(描きたい)と思っている限り、この援助によって動きが現れてくることが多いように思われる。
 (1) 動きが現れてきた場合でも、「終点」が難しい場合が少なくない。特に初期の段階では、意味のあるまとまりとしてこちらがとらえられた時点で、筆記具の先を紙面から離してやる必要がある。

(3)「自分はどうしたいのかはっきりしない」ように見える場合
  このような場合は、書く(描く)という場面に本人が関心を持っているか否かを尋ねてみることから始めることが大切である。そして、この場合、モデルを示してやることが書く(描く)ことへの大きなきっかけを提供することが多いように思われる。モデルは、その場で書いて(描いて)みせる事で提供できる。そのうえで、
 (1) 彼(女)に筆記具や紙を見せて一緒にやってみることを提案する。
 (2) 彼(女)が筆記具や紙を受け取ったり、机に座るなど提案を受け入れた場合、まず、0や×、数字など簡単な図形の模写を(2)のようなやり方で試ることができる。このことを通じて彼(女)に書く(描く) ということがどのようなことなのかがわかるし、彼女へのSTA上の配慮点がこちらにもわかる。

  いずれにしても、STA事態が成立するために最も重要な事は、障害のある人目身がSTAによって何かを実現したいと考え、援助者にそれを求めることである。彼(女)がそれを求めない限りSTA事態は成立しない。STAにとって「無理矢理書かせる、描かせる」ということはありえないのである。もちろん書く、描くなどの活動を開始しようとする前に活動への構えをつくるために援助者を拒否するように見えることがあるが、それは余分な声かけを控えて待つことで彼(女)自身が自分を調整して構えをつくることが多いように思われる。また、STAを体験しておらず、彼(女)が「書く(描く)」ということを独力でやりたいと強く思っている場合、STAが彼(女)にとって有効な援助であるということを伝える過程で強引と見える場面がありうる。このようなSTAによる書字や描画を開始すると、やがて自ら筆記具や紙を求めることが見られるようになり、そのようななかで、私たちの側が誘導されているように線分が描かれていく体験をすることができる。
  逆に、こちらが書く(描く)あるいは日常生活動作を強いるような場合、彼(女)は触れられること自体を拒否することになり、そして、このようなかかわりは、一瞬にして彼(女)との関係自体を壊してしまうことにもなる。STA事態はその名のとおり、Assistannce(援助)なのである。


4.表現の実現によって生じる変化
  言葉や身振り言語がなく、独力で書字・描画をするに至らなかった子どもに書字や描画が実現することによって、周囲の人々の彼(女)に対する見方は激変する。それは、周囲の人々が「自分自身」と彼(女)との間にそれまでに難しかった共通項を見出すからである。彼(女)の内奥の世界を知ったという確信が持てるからである。この喜びは、彼(女)にとっては「通じた」との確信として受けとめられ、また、何をどのようにすることが「通じる」ことに結びつくのかを実感として知ることになる。そして、結果として、両者の関係は大きく変化するのである。
  他方この事実は、それまでかかわりをもってきた人々に動揺をもたらすこともある。それは、人々がそれまでに理解してきた彼(女)の姿や想像してきた波(女)の内的な世界と、そこに展開されたこと、明らかになったこととの間にある隔たりからやってくる。時としてこの動揺は、書(描)くという行為や書(描)かれたものについてばかりでなく、支援方法そのものについて懐疑的なものにしてしまうことがある。


5.提起している事:表現に「障害がある」ということ
  私たちは、自分の動作や身振り表情と異なっていると奇妙に感じたり、それが恒常的だと「あの人は変わっている」、「あの人はわからない」と捉えてしまいがちである。これとは逆に、相手が異文化の人であったり、中途の障害や進行性の障害がある人の場合、きっとあの人には「きちんとした」意図があるに違いないと捉えようとする。例えば、ALS(筋萎縮性側素硬化症)や筋ジストロフィー症の人々のように進行性の神経系疾患や筋疾患によって運動機能が低下していき、その結果他者にわかる意思表出が困難になった場合、周囲の人々は従前の状態を手がかりに、「この人はこちらのはなすことや周りの状況がわかってる」と推測する。そして、その人に生じた意思表出の困難をどのように補償したら良いかを工夫することになるであろう。
  しかし、これさえも長期間継続していくと、「わかっていない」「何も考えていない」ととらえがちになってしまうことがある。高齢の方々に対して取りがちな態度はその代表的な例といえる。
  他方、「障害」が出生時や幼少時からであった場合、人々のとらえ方はこれと大きく異なってくる。多くの人々の成長過程に共通に見られる「発達」と呼ばれる行動様式の変化が彼(女)に見られないことを根拠に、彼(女)にはその過程で行われるべき学習が行われていないと見てしまうことが多い。さらに、その行動現象から、状況認識や推理、判断する力いわゆる「知的能力」がないとみて、そして、早期からの教育や療育として、多くの人々に見られるのと同じ行動様式をともなうこれらの「能力」の獲得を目指して同じ順序性を辿って実現させようとする。しかし、STAによる表出の事例は、それまでに学習をしていないと見られてきた人々が、STAによって、学習をしていないはずの内容をそこに現わしている。彼らはいったい、どこでどのように学習を成立させていたのか。そして、周囲がそのことに気づくことが難しかったのはなぜか。STAによる事例はこういった従来の見方やかかわりを根本的に見直す必要があることを強く示唆している。


さ い ご に
  私たちは、生後いつのまにか身につけてきた動作、しぐさ、表情の様式をもとからあった当たり前のものであるかのように暮らしている。そして、これと違う様式を取る人々を奇異に感じたり除外しようとする。障害のある人々の場合、社会に流通している様式をとる事ができないのは何らその人の責任ではない。
  しかし、実際の生活の中で、こういった事態におかれた人々は、通じないストレス、どのようにしたらよいかわからない焦燥のなかで過ごす事になり、そして、ともに暮らす身近な人々もまた高いストレスをもつことになる。このような事態を少なくしていくために、表現への支援を工夫していくことは決定的に重要な事だと思われる。


【参考文献】
落合俊郎・久田信行:表出援助の方法をめぐって(1)−書字・描画の援助を通して−、日本特殊教育学会  第30回大会発表論文集、1992

特別研究「障害のある子どもの書字・描画における表出援助法に関する研究」報告書、国立特殊教育総合研究所、2000.3


※ 本頃は、雑誌「はげみ」(2001年6・7月号)に掲載された研究分担者滝坂信一の文章を一部修正したものである(著者の了解済み)。

     


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